Forever Young〜ずっと幼子のままで

PaxDomini 2017-18 Winter

◎こども、子ども、子供!

定期刊行物にはそれぞれ校正の決まり事があって、用語の表記に一貫性を持たせるのが常です。とくに漢字仮名まじりの日本語では注意を要します。たとえば「こども」なのか「子ども」なのか「子供」なのか。記事ごとに筆者ごとにまちまちでは誌面に落ち着きがなくなるので、本誌PaxDominiでは通常「子ども」と表記するようにしていました。上の阿蘇さんの記事は、生原稿では概ね「子供」でしたが「子ども」に統一しました。しかし教区の子どものためのミサはその名称が「こどものミサ」なので、あえて「子ども」に正すことはしていません。あしからずご了承ください。

さて、典礼奉仕、とくに子ども侍者のあり方について大きく変わり始めた青梅教会。「典礼の飾りものとしての子ども」ではなく、これからは典礼に奉仕できる子ども侍者を目指します。ここでふと、「子供」に戻してみたくなりました。(「供」という漢字が重たく感じるので「子」だけ漢字を用いていたのですが)するとどうでしょう。何やら今の文脈において収まりのよい「子供侍者」なる四字熟語が現れるではありませんか! そもそも「子供」という日本語は、子が「お供え」であることを意味していたでしょう。祭壇で典礼に奉仕する子はきっと「子供」です。奉納する子も「子供」です。教会の子どもは、典礼に向かうとき、神様に捧げられる「子供」になるのでしょう。(I)

Forever Young〜ずっと幼子のままで

◎「子供」という啓示

エスコラピオス会の創始者である聖ヨセフ・カラサンスが世界ではじめて一般庶民の子供のための学校を設立したのが1597年のことでした。それが今日の公教育の原点とされていますが、個人的には「中世」という時代に終止符を打ち「近代」の幕を開けた画期的な出来事だったと考えます。中世とは何か。『子供の誕生』を著した歴史家フィリップ・アリエスによれば、驚くべきことに中世とは、そもそも「教育」という概念も「子供」という概念も存在しなかった時代、ということになります。年少の者たちは「大人のできそこない」にすぎず、人間以下の動物と同じ扱いを受け、フリスビー代わりに遊びで投げ飛ばされて死ぬことも珍しくなく、嬰児殺しがとくに問題とされることもありませんでした。カラサンス以前は教会が子供の保護をあえて訴えることもなかったようです。

いつ頃までが中世か歴史区分をめぐって様々な議論がありますが、カラサンスによって初めて子供と教育が誕生することになった16世紀末までを一区切りとするのがしっくりくる気がします。もちろん中世は素晴らしい時代でした。ルネッサンスが開花し、人々の生活が芸術で満たされ、また今日に通じる普遍教会のみのりをもたらす時代でした。1563年に閉会したトレントの公会議はその頂点に位置づけられるものでしょう。

一方で「子供がいなかった」ことは、中世という時代の衝撃的な真実です。教会の外に学校ができ、子供は教育を授けられるべき特別な存在になりますが、近世に移行した後も教会の中に、また典礼の中に、子供の特別な価値が見出されたわけではありませんでした。祭壇奉仕する少年は「大人の見習い」にすぎなかったでしょう。少なくとも子供を大切にする典礼ではなかったでしょう。美しいトレントのミサに「こどものミサ」など入り込む余地は毛頭なかったでしょう。

第2バチカン公会議の後に導入された新しいミサは中世の美しさを脱ぎ捨てました。それについては今なお批判や疑問が渦巻きます。しかし、わたしたちにとって本当に特別な存在である子供の目線からミサをおこなうことを可能にしたのが、第2バチカン公会議のもっとも大きなみのりの一つだったのではないかと思います。極論すれば、つねに「子どもミサ」たりうることが新しい典礼の神学的意義ではないでしょうか。

ほんの5年前、青梅教会に子どもはいませんでした。当時は中世だったのでしょうか? 文字通り子どもの姿はありませんでした。それが李神父の着任とともに青梅教会の近世の扉を開いたのは子どもたちのはじける笑顔でした。教会で出会う子どもたちの天真爛漫な表情は福音そのものでした。そしてそれを見つめるお年寄りの笑顔もまた幼子のようでした。中世が終わった青梅教会に子どもとともに「育成」という概念が誕生しました。共同体の全員が育成の担い手となり、子供とともに大人も成長する糧を得ることになりました。

これから青梅教会は典礼の中で育成の概念が熟成していく、さらに新しい時代を迎えます。典礼と育成の恊働は、教会史的に注目すべきワクワクするプロジェクトです。歩み寄りながら支え合いながら進んでいきましょう。子供が啓示であることを忘れることなく。(広報部 池田)

心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。(マタイ18-3)