信徒の召命と使命について(中-1)

前号「信徒の召命と使命について(前)」の末尾に私は、「次号では、第2バチカン公会議公文書『教会憲章』第4章「信徒について」及び『信徒使徒職に関する教令』から稿を起こし、聖ヨハネ・パウロ2世教皇の使徒的勧告『CHRISTIFIDELES LAICI』(邦訳『信徒の召命と使命』)に基づき、さらに、コンガール枢機卿の「信徒神学」にも触れながら、私たち信徒の召命と使命について述べたいと思っています」と書きましたが、それらのことを述べる前に、第2バチカン公会議そのものについて多少詳しく記しておかなければならないと思うようになりました。それは、稿を起こすにあたって、改めて『第二バチカン公会議公文書・改訂公式訳』に目を通そうと開いたところ、「刊行にあたって」の、池長潤大司教(日本カトリック司教協議会会長)の次の言葉に触れたからです。「第二バチカン公会議は単にカトリック教会史、あるいはキリスト教史を画した一大事件というよりは、その後の変遷から見て、世界史の重要な節目を画し、人類のあり方に大きな変革をもたらした出来事でした。身をもってこの四年間を固唾をのみながら目撃したカトリック信者の生き証人世代は、公会議後半世紀を過ぎた今、すでに教会内では数少なくなっています。今日、国語典礼や、『神の民』の典礼に参加できることが当然のようになっています。信徒の位置づけ、意識も変化しました。世界において教会が置かれている環境も激変しています。それは必ずしも、教会と信者の生活にとって好都合のものだけではありません。しかし第二バチカン公会議が打ち出した指針に基づいて、わたしたちはキリストにおける希望をもって愛を実践しつつ信仰を生きていかなければならないのです」

このなかの「身をもってこの四年間を固唾をのみながら目撃したカトリック信者の生き証人世代は、公会議後半世紀を過ぎた今、すでに教会内では数少なくなってい」るどころか、私の身近な聖職者・修道者・信徒のほとんどが、公会議以降に受洗した人たちです。かくいう私自身も受洗したのは第2バチカン公会議の閉会から二年経った1967年でした。まさに私たちにとっては、池長大司教が言われるとおり、「国語典礼や、『神の民』の典礼に参加できることが当然のようになって」います。平たく言えば、「カトリック教会史、あるいはキリスト教史を画した一大事件というよりは、その後の変遷から見て、世界史の重要な節目を画し、人類のあり方に大きな変革をもたらした出来事」が、風化してしまっているのです。その危惧の念が私をしてこの稿を書かしめる動機になったのです。

第2バチカン公会議は、第1回のニカイア公会議(注一)から数えて第21回目に当たります。公会議(注二)の原型は「使徒言行録」15章に書かれている、いわゆるエルサレム会議にあると言われています。第1ニカイア公会議以降、重要な公会議として、第1コンスタンティノポリス公会議(注三)、カルケドン公会議(注四)、コンスタンテツ公会議(注五)、バーゼル公会議・フェラーラ公会議(注五)・フィレンツェ公会議(注五)、トリエント公会議、第1バチカン公会議(注六)などが挙げられます。とりわけこのトリエント公会議での決議事項が、第2バチカン公会議までの四百年の長きにわたって、あらゆる面で私たちの信仰と生活を導いてきました。その現代化のために、教会の刷新を目指した第2バチカン公会議を語る前に、どうしてもこのトリエント公会議については触れておかなければならないのです。

1517年10月31日、アウグスチノ会修道士のマルティン・ルター(ドイツ、1483-1546)がヴィッテンベルク城教会の門扉に「95箇条の提題」を張り出し、免罪符の販売などに対して、カトリック教会の在り方に疑義を呈しました。これに続き、ツヴィングリ(スイス、1484-1531)やカルヴァン(フランス、1509-64)などの「宗教改革」の運動が燎原の火のように広がり、「聖書のみ、信仰のみ、万人祭司」(注七)の三つを原理としたプロテスタンティズムを構成するにまで到り、ルター派、改革派など多くのプロテスタント教派が成立しました。
これらの事態への対策として、教皇パウロ3世(在位1534-49)によって招集され、のち、教皇ピオ4世(在位1559-65)によって受け継がれた第19回目の公会議がトリエント公会議(1545-1563 *52-61は中断)です。この公会議で決議された(再確認されたものも含めて)重要な項目は次のようなものです。

①ニカイア・コンスタンティノポリス信条を信仰の基礎とする。
②聖書と聖伝は、福音の「救いの真理と道徳律の源泉」であり、ウルガタ訳聖書(注八)を公式聖書とする。
③宗教改革者たちは、原罪によって人間は根底から堕落し、その自由意志は失われたと教えているが、人間の本性は全面的に腐敗したわけではない。
④信仰にのみではなく善行による功績も、神が人を義とする不可欠の条件である。
⑤秘跡は七つである。
⑥司祭職志願者は剃髪を受け、守門・読師・祓魔師・侍祭・副助祭・助祭・司祭となってゆく。
⑦ミサはキリストの十字架の犠牲の記念であり再現である。
⑧聖別によってパンと葡萄酒は聖体に変化する(実体変化)。
⑨免償、聖人・聖遺物・聖画像の崇敬、煉獄の教義は斥けない。

トリエント公会議は、先ず免罪符の販売を禁じ、批判されたいろいろな事柄を検討し、プロテスタンティズムへの明瞭な解答を試みたということでは一定の成果をあげたかも知れませんが、信徒に関することは取りあげられず、聖職者中心主義がさらに強まったことなどで、かえってプロテスタント諸教派との溝を深めたことは否めません。かつ、公会議後の1570年に、プロテスタント諸教派がそれぞれの民族の言葉で典礼を執り行うのを尻目に、教皇ピオ5世によって『ローマ・ミサ典礼書』が発刊され、全世界の教会で400年近く、ラテン語だけでミサが挙げられ続けることになるのです。

このような流れの中で、教皇レオ13世(在位1878 〜1903)が聖書学の発展を示唆し、教皇ピオ10世(在位1903〜14)が典礼の刷新に着手するなどの動きがありました。そして、教皇ピオ12世(在位1939〜58)が『Mystici Corporisミスティチ・コルポリス「キリストの神秘体である教会」』、『Divino afflante Spiritu ディヴィノ・アフランテ・スピリットゥ「聖書の釈義研究の推進」』『Mediator Dei メディアトル・ディ「典礼運動」』の回勅を発し、それによって、交わりの教会論、典礼への信徒の参加の必要性、聖書研究への自由などが提示され、それぞれの分野での刷新が大いに促進されることになりました。ただ、かえすがえすも残念のは、1950年に発した回勅『Humani generis フマ二・ジェネリス「人類についてーカトリック教理の根本をゆるがす誤った意見につて」』に基づいた当時の教会の権力者らが、1940年代にフランスのカトリック神学界から起こった<[仏]Nouvelle Théologie ヌーヴェル・テオロジー「新神学」>(注九)の運動を危険視し、代表されるコンガール、J・ダニエルー、リュバック、テヤール・ド・シャルダンたちの教職や執筆活動などを禁じたことです。

ところがなんと、そのコンガール(注十)やリュバック(注十一)が10年を経て復権し、ラーナ―(注十二)などとともに、神学顧問として、第2バチカン公会議を主導してゆくことになるのです。(続く)

(注一)第1ニカイア公会議
325年、いわゆる「ミラノ勅令」を発し、キリスト教を公認(313)したコンスタンティヌス1世によつて召集され、250名を超える司教が参加した。「ニカイア信条」を制定し、キリストの神性の教義を確認した。
(注二)公会議
*ラテン表記でconcilirum oecumenicum
カトリック教会において全世界の司教が教会の最高指導者として集まり、信仰とキリスト教生活に関して規範となるような議決を行う教会の最高会議。教皇が召集・主宰し、決議を承認すると規定されている(カトリック新教会法典、337-341条)。(『岩波キリスト教辞典』岩島忠彦「公会議」)
(注三)第1コンスタンティノポリス公会議
381年、キリスト教を国教化(392)したテオドシウス1世によって招集され、150名の司教が参加した。「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」を制定し、聖霊の神性の教義を確認した。
(注四)カルケドン公会議
451年、マルキアヌス帝によって招集され、500名を超える司教が参加した。「カルケドン信条」が起草され、キリストの神性と人性の位格的一致の教義を確認した。
(注五)コンスタンツ公会議(1414-1418)、 バーゼル公会議(1431)・フェラーラ公会議(1438)フィレンツェ公会議(1439-1445)
中世の公会議は諸異端の排斥や教皇権や教会法上の規律、さらに秘跡などが問題とされた。3人の教皇が対立する大シスマ時代(1378-1417)に、公会議が教皇の上に立つとする公会議主義(conciliarismus)が生まれて教皇主義(papalismus)と対立し、議論されたが、最終的には後者の立場が保たれた。(『岩波キリスト教辞典』岩島忠彦「公会議」) *「シスマ[ギ・ラ]schisma」とは教会分裂、の意。カトリック教会は、第16回目のコンスタンツ公会議の後の、バーゼル公会議・フェラーラ公会議を公会議として数えず、フィレンツェ公会議を第17回目の公会議としている。
(注六)第1バチカン公会議(1869-1870)
教皇ピオ9世(在位1846-78)によって招集され、教皇の教導職の不可謬が、『PastorAeternus パストール・エテルノス「永遠の牧者」』で、宣言された。
(注七)「聖書のみ、信仰のみ、万人祭司」
「聖書のみ」とは、使徒的伝承「聖伝sacratrraditio」
(注八)ウルガタ訳
Vulgata(広くゆきわたる、の意)。382年、教皇ダマスス1世(在位366-384)から依頼され、聖ヒエロニュムスが従来の古ラテン語訳聖書を大幅に改訂し、ことに旧約聖書は原文のあるものは直接ヘブライ語から訳した。トリエント公会議でカトリック教会の公式聖書となる。
(注九)Nouvelle Théologie
スコラ神学を批判し、現代哲学を評価する。マルクス主義や他宗教との対話の必要性や進化論の受容を説く。特に、聖書や教父たちの思想である源泉への回帰を主張したことが、当時の教会の権力者らから、自らの教導職を脅かしかねないと危険視され、さまざまな弾圧を受けた。
(注十)コンガール 『Pax Domini』2018年春号「信徒の召命と使命について(前)参照。
(注十一)リュバック Labac,Henri de(1896-1991) フランスの神学者。イエズス会士。オリゲネス、テヤール・ド・シャルダンの研究家。仏教にも造詣が深い。46年に発表した『超自然的なもの』が危険視され、教職を剥奪される。第二バチカン公会議では神学顧問を務め、63年に教皇庁非キリスト者・非カトリック信者のための秘書局顧問、83年に枢機卿となる。
(注十二)ラーナ― Rahner, Karl(1904-84) ドイツの神学者。イエズス会士。明確な信仰告白を以てキリストを信じていなくてもキリストの救いに与かれる、<[独]anonymeChristen「無名のキリスト者」>、という概念を展開し、キリストの仲介による救いの絶対性、宗教と世界観の多様性の受容を説いた。聖ヨハネ23世の信頼が厚く、第2バチカン公会議では神学顧問を務め、『教会憲章』への道を開いた。代表作に『キリスト教とは何かー現代カトリック神学基礎論』がある。

【引用・参考文献】
『書物としての新約聖書』田川建三 勁草書房 1997年
『知って役立つキリスト教大研究』八木谷涼子 新潮社 2001年
『岩波キリスト教辞典』大貫隆・名取四郎・宮本久雄・百瀬文晃編集 岩波書店 2002年
『カトリック教会の教え』新要理書編纂特別委員会編集・日本カトリック司教協議会監修
カトリック中央協議会 2003年
『キリスト教の2000年』ミシェル・クリスチャン オリエンス宗教研究所 2004年
『新約聖書訳と注2下 使徒行伝』田川建三
作品社 2011年
『聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 2013年
『第二バチカン公会議公文書・改訂公式訳』第2バチカン公会議文書公式訳改訂特別委員会監訳 カトリック中央協議会 2013年
「Pax Domini 2018年春号」カトリック青梅教会広報部 2018年

岩崎章次

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA