信徒の召命と使命について(中-2)

前号「信徒の召命と使命について(中)」の冒頭で、私は、日本カトリック司教協議会会長・池長潤大阪大司教(在位1997-2014)の『第二バチカン公会議公文書 改訂公式訳』刊行にあたって-------の、「第二バチカン公会議は単にカトリック教会史、あるいはキリスト教史を画した一大事件というよりは、その後の変遷から見て、世界史の重要な節目を画し、人類のあり方に大きな変革をもたらした出来事でした。身をもってこの四年間を固唾をのみながら目撃したカトリック信者の生き証人世代は、公会議後半世紀を過ぎた今、すでに教会内では数少なくなっています。今日、国語典礼や、「神の民」の典礼に参加できることが当然のようになっています。信徒の位置づけ、意識も変化しました。世界において教会が置かれている環境も激変しています。それは必ずしも、教会と信者の生活にとって好都合のものだけではありません。しかし第二バチカン公会議が打ち出した指針に基づいて、わたしたちはキリストにおける希望をもって愛を実践しつつ信仰を生きていかなければならないのです」を引用し、このなかの「身をもってこの四年間を固唾をのみながら目撃したカトリック信者の生き証人世代は、公会議後半世紀を過ぎた今、すでに教会内では数少なくなってい」るどころか、私の身近な聖職者・修道者・信徒のほとんどが、公会議以降に受洗した人たちです。かくいう私自身も受洗したのは第2バチカン公会議の閉会から二年経った1967年でした。まさに私たちにとっては、池長大司教が言われるとおり、「国語典礼や、『神の民』の典礼に参加できることが当然のようになっています」。平たく言えば、「カトリック教会史、あるいはキリスト教史を画した一大事件というよりは、その後の変遷から見て、世界史の重要な節目を画し、人類のあり方に大きな変革をもたらした出来事」が、風化してしまっているのです。その危惧の念が私をしてこの稿を書かしめる動機になったのです。-------と書き、その「第2バチカン公会議」に至るまでの小史を記しました。今号はいよいよ「第2バチカン公会議」そのものについて多少詳しく述べてゆこうと思います。

教皇ヨハネ23世(注一)は、1961年12月25日に使徒憲章『Humanae salutis フマネ・サルーティス』を発表し、「一方においては精神的貧困に苦しむ世界、他方には生命力に満ち溢れるキリストの教会がある。私は教皇になる資格のない者であるが、神の摂理によって、この教皇に選ばれた時以来、この二つの事実に直面して、教会が現代人の諸問題解決のために貢献するよう、すべての信者の力を結集することが私の義務であると考えてきた。そのため、私の心に浮かんだこの考えを超自然的霊感であると判断し、今こそカトリック教会と全人類家族にとって全世界教会会議を開催する時であると考えた」と、公会議を開催する動機について述べています。
教皇は、すでに公会議の開催に向かって、1958年11月4日に着座した翌1959年に前準備委員会を設置し、公会議の名称を「第2バチカン公会議」とし、1960年6月5日に自発教令『Superno Dei nutu スペルノ・ディ・ヌートゥ』を発表し、典礼委員会・修道者委員会・信徒使徒職委員会などの10の準備委員会(委員数715名、公会議開催時には900名)と3つの事務局を設置しました。さらに、これらの委員会の上に、各委員会の委員長と各国の司教協議会会長からなる準備中央委員会(教皇と教皇代理を委員長とし、委員数85名、公会議開催時には102名)を設置しました。この準備中央委員会の委員の一人に、枢機卿・土井辰雄東京大司教(在位1938-1970)がいます。また神学顧問として、前号で触れたコンガール、リュバック、ラーナー等がいることも明記しておきます。
この準備中央委員会は、各委員会から提出された公会議の議題となる22の文書を承認し、全世界の司教たちに送付しました。その反応は批判的で、多くの文書が練り直されることになりました。
そして教皇は、1962年8月6日に自発教令『Appropinquante Concilio アプロピンクアンテ・コンツィリオ』を発表し、公会議に関する諸事項を定めました。これを受けて、次の事項が確認されました。その内容を箇条書きします。

・議事は、公開会議と総会と10の委員会(委員は25名まで、その後31名までとなる)で審議する。

・3つの事務局のほかに、新たな問題が起きたときのために「特別事項委員会」を設置する。

・公開会議と総会ではラテン語を使用し、発言は10分までとする。

・総会は、委員会からの提案について議論し、出席者の三分の二の賛成を以て採択する。必要があれば修正を施し、それを「要綱」として、公開会議に提出する。

・その「要綱」は、公開会議の出席者の三分の二の賛成を以て採択され、教皇が承認し、公布される。

・公会議に参加し、議決権を持つ者は、枢機卿・大司教・司教・大修道院長・免属修道会総長とする。公会議に参加する司教たちを「教父」と呼ぶ。

・公会議は、サン・ピエトロ大聖堂で行う。

公会議の会期は(1962年10月11日-12月8日、1963年9月29日-12月4日、1964年9月14日-11月21日、1965年9月14日-12月8日)の四会期、その間に、168回の総会と10回の公開会議が行われました。参加した「教父」は約2400名、最終的には新たに任命された司教もおり、延べ3058名を数えます。日本からは14教区、のち15教区(現在の那覇教区はまだなく、高松は知牧区として大阪大司教が兼任、1963年に教区に昇格し、初代教区長が第二会期から参加)の枢機卿(東京)・大司教(大阪・長崎)・司教の計15名。
公会議開会にあたって、教皇は、「信仰の本質とそれを説明する方法とを区別する。キリストの教えは単に信仰の光に照らされた知性によって研究する真理であるばかりではなく、生活と行動に関わる言葉である。また、教会の権威はそれを脅かす誤りを断罪するだけではなく、信仰を実り豊かなものとする生きた教えを積極的に告げ知らせなければならない」と述べ、公会議の方向性と位置づけを示しました。第一会期では、主に典礼の刷新について議論されました。第一会期が終了し、公会議は最初の休暇に入りました。その間の、1963年4月11日(聖木曜日)、教皇は歴史的回勅『Pacem in terries パーチェム・イン・テリス』(注二)を公布し、そして、6月3日、逝去されました。
1963年6月22日に、ヨハネ23世の後継者として、教皇パウロ6世(注三)が選出されました。パウロ6世は、幸い革新的な人で、公会議を9月29日から再開すると決めました。

第二会期では、主に教会について議論されました。教皇の首位権、司教団の権威と協働性が確認されました。聖職者と信徒(奉献生活者も含む)からなる「神の民」が教会の一つの全体を成し、それが教会の本質である、と明らかにされました。12月3日、トリエント公会議閉会400周年の記念式典で、教皇は、自発教令『Pastorale munus パストラーレ・ムトス』を発表し、司教たちに教区の統治に関する権限などをあらためて保証しました。この会期では、第一会期での議論を踏まえて『典礼憲章』と『広報メディアに関する教令』が可決され、教皇はこれを承認し、公布しました。

第三会期の開始を目前にして教皇は、1963年8月6日に回勅『Ecclesiam suam エクレジアム・スアム』を発表し、公会議の目的についてあらためて説明しました。第三会期では、神の母・聖なる処女マリアについて、司教の司牧任務について、信教の自由について、ユダヤ教に対する教会の態度について、エキュメニズム(教会一致促進運動)について、司祭の役務と生活について、教会の宣教活動について、修道生活の刷新・適応について、司祭の養成について、キリスト教的教育について、カトリック東方諸教会について、現代世界における教会に関する司牧についてなどが議論されました。これらの討議を経て『教会憲章』、『カトリック東方諸教会に関する教令』、『エキュメニズムに関する教令』が可決され、教皇はこれを承認し、公布しました。

第四会期では、『信教の自由に関する宣言』、『現代世界憲章』、『神の啓示に関する憲章』、『教会における司教の司牧任務に関する教令』、『修道生活の刷新・適応に関する教令』、『司祭の養成に関する教令』、『キリスト教的教育に関する宣言』、『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』、『信徒使徒職に関する教令』、『教会の宣教活動に関する教令』、『司祭の役務と生活に関する教令』が可決され、教皇はこれを承認し、公布しました。このなかで、『信教の自由に関する宣言』、『現代世界憲章』、『神の啓示に関する憲章』の3つは反対意見が強かっのですが、教皇自ら文書の修正を加え可決されました。こうして、公会議は4つの憲章、9つの教令、3つの宣言(注四)からなる16の公文書を発表し、1965年12月8日、教皇の使徒的小勅書『In SpirituSancto イン・スピリトゥ・サンクト』を以て、その閉会が告げられたのです。
また、この会期のさなか、教皇が、1965年11月15日に自発教令『Apostolica sollicitudo アポストリカ・ソリチトゥード』を発表し、公会議後も教皇と司教たちが協働できるよう、「世界代表司教会議(シノドス)」の設立を通知したことを特記しておきます。(続く)

次号では、この第2バチカン公会議によって、教会の何が刷新され、世界に向かって何が推進されていったのかについて触れ、そのあと、『教会憲章』第4章「信徒について」、『信徒使徒職に関する教令』、聖ヨハネ・パウロ2世の使徒的勧告『Christifideles Laici クリスティフィデレス・ライチ(キリストに忠実な信徒、の意。邦訳『信徒の召命と使命』)』に基づき、本題の「信徒の召命と使命」について書いてゆこうと思っています。

(注一)ヨハネ23世 1881年、イタリアのベルガモ郊外のソット・イル・モンテに小作農の子として生まれる。名はAngelo Giuseppe Roncalli アンジェロ・ジュセッペ・ロンカッリ。1904年に司祭に叙階。布教聖省の職員やラテラノ大学教授(教会史)などを経る。1925年に司教に叙階。ブルガリア・トルコ・ギリシャの教皇使節、フランスの教皇大使を歴任。1953年に枢機卿に任命される。1958年に教皇ピオ12世の後継者として77歳で教皇に選出される。1962年に「aggiornamento アジョルナメント(現代化、の意)」をスローガンとし、「第2バチカン公会議」を招集する。1963年に胃癌のため逝去。2014年4月27日、教皇フランシスコによって列聖される。
(注二)『Pacem in terries パーチェム・イン・テリス(邦訳『地上の平和』)』 教皇は、このなかで「紛争は武力に訴えることによってではなく、対話によって解決されるべきである」と説き、「すべての人間は、生きる権利を持っている。肉体的に尊厳を保つ権利、人としてふさわしい形での成長を遂げるために必要な手段を有する権利を持っている」と述べている。
(注三)パウロ6世  1897年、北イタリアのプレシアに貴族の子として生まれる。名はGiovanni Battista Montini ジョバンニ・バッテイスタ・モンティニ。1920年に司祭に叙階。教皇庁国務省の勤務を経て、国務長官などを歴任。1954年にいきなりミラノ大司教に叙階。1958年に枢機卿に任命される。1963年に教皇に選出される。1963年9月29日から公会議を再開する。教会一致促進のために、1964年にコンスタンティノポリス総主教、1966年にカンタベリー大司教を訪ね、1978年に心臓麻痺のため逝去。主な回勅に、『Populorum progrssio ポプロールム・プログレシオ(諸民族の進歩、の意)』、『Humana Vitae フマネ・ヴィテ』(注五)がある。2014年10月19日、教皇フランシスコによって列福され、2018年10月14日に列聖されることが決められている。
(注四)憲章(Constitutio) 教義・司牧上の諸問題に関して、公会議において交付されるもの。教令(Decretum) 教皇、または公会議が公布するものや、地方教会の司教団が出すものなどがある。宣言(Declaratio) ある特別な問題に関する見解を示したもの。
(注五)『Humana Vitae フマネ・ブィテ(人間の生命、の意)』 1968年7月25日、公布される。妊娠中絶はもちろん、避妊具や避妊薬を使っての産児制限も否定した。今日に到ってまでも、教会内はじめ外からも物議をかもしている。教皇はこのなかで「すでに始まっている生殖過程への直接的介入が、合法的産児制限法とされることは全面的に否定されねばならないことを、それだけではなく、教会教導職がしばしば教えてきたように、男女を問わず直接的不妊手術も同じく断罪されねばなりません⑭」、「教会は、夫婦が不妊期間を利用することは道徳的に許される、また一見夫婦にそうする重大な理由があったとしても直接的避妊行為はすべて道徳的に間違っている、と教えますが、これは決して気まぐれではありません。これら二つの状況は本質的に異なっています。第一の場合、夫婦は自然が備えた機能を合法的に利用します。第二の場合、夫婦は生殖秩序がそれ自体に自然に備わるプロセスに従うのを妨げます⑯」と述べている。なお、『Pax Domini』編集長・池田正昭氏のプロライフの活動の原点はここにあると思われる。

<引用・参考文献>
『第二バチカン公会議公文書全集』南山大学監修 中央出版社 1986年
『岩波キリスト教辞典』大貫隆、名取四郎、宮本久雄、百瀬文晃 岩波書店 2002年
『第二バチカン公会議公文書 改訂公式訳』
第2バチカン公会議文書公式訳改訂特別委員会 カトリック中央協議会 2013年
*今号の執筆にあたっては、この著の高見三明長崎大司教「総序3 展開」に多く依ったことをあらかじめお断りしておきます。

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