<2019年青梅教会の司牧指針> この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。(ヨハネ2章19節)

福音記者ヨハネは、この神殿について「イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだったのである」(2章21節)と記しています。そしてイエスご自身の復活のことでもあります。
教会はとくに聖なる神殿と呼ばれます。死んで復活されたキリストの霊の働きによって信じる者の共同体をご自分の「からだ」となさいます。教会はキリストを頭(かしら)とするからだです。この一つのからだのうちに、その両手両足となる各部等の存在があり、すなわち、私たちの行う奉仕活動、福音宣教そのものが、その一つ一つであるのです。そして、すべての人がその手足に結ばれていて、とくに苦しんでいる人、貧しい人、迫害されている人々と結ばれているのです。
イエス様は、教会とともに、教会の中に生きておられます。
目に見えるものばかりにとらわらがちな私たちですが、イエス様は、私たちの人生を自分の利益のためでなく、愛である神の栄光のために生きるようにと招いておられます。私たち自身、家族、さまざまな共同体の中に、本当にイエス様がいきいきと働いてくださるように祈り、ともにおられるイエス様に心を向け、真(まこと)の神殿にふさわしい者として歩んでいlける共同体でありますように。

青梅教会の司牧指針に根源的な「教会論」が浮上してきたことは神の御摂理です。だれもがこのところの活気を感じずにはいられない私たちの小教区が、キリストの体のうちに「生きている」「生きようとしている」あかしです。イエス様が復活し、今もキリストの霊が生きているから、私たちひとりひとりが「教会そのもの」として生きている。その真理を、しっかり胸に刻み、これまで以上に体現できる一年でありたいと願います。大正から昭和の初期に活躍し、時を超えて今もきっと信徒の霊的指導者でありつづける岩下壮一神父(1899-1940年)が記した教会論の真髄というべき一節を以下に引用します。今年の青梅教会の司牧指針を力強く後押ししてくれるでしょう。

…カトリック者にとっては、教会は信者が出来て始めて成立したものではない。それは又信者の信仰生活の自然に産み出した結果でもない。教会という神秘体の本体は神人キリストの霊である。その霊によって超自然的生命を与えられた信者がその神秘体の可見的要素を構成するには違いないが、それは霊的本体よりの可見的生長であって、個々の魂を成聖するこの霊こそ教会の本体である。故に信者は教会の結ぶ果実であり、幹たる教会は、信者に先だって存在するのである。即ち先ず教会あって始めて後に信者の成聖が可能になる。この意味に於て教会の外には救いも罪の赦しもあり得ない。一切の成聖はキリストの霊の働きだからである。
◎岩下壮一「カトリック的宗教態度」(岩波文庫『信仰の遺産』収蔵)より

(*タイトル)
信徒の召命と使命について(後-1)
岩崎章次

(*本文)
第2バチカン公会議は、『教会憲章』第4章「信徒について」30-38で、「教会における信徒」・「信徒の定義」・「神の民の成員である信徒の尊厳」・「信徒の使徒職」・「信徒の共通祭司職」・「信徒の預言職」・「信徒の王職」・「信徒と聖職位階との関係」の八つの項目を以て信徒の位置付けを明確にしました。そして、『信徒使徒職に関する教令』第1章ー第6章(1-33)で、二十七項目からなる「信徒の使徒職への召命について」・「到達すべき目的について」・「使徒職の種々の分野について」・「使徒職のさまざまなあり方について」・「守るべき秩序について」・「使徒職への養成について」を以て信徒の役割を明確にしました。
信徒の位置付けと役割、私は、これからこれらの項目の一つ一つに当たりながら、「信徒の召命と使命について」の筆を執ってゆこうと思います。

第2バチカン公会議は、私たち信徒を『教会憲章』31「信徒の定義」で、次のように位置付けました。

「ここでいわれている信徒とは、聖なる叙階を受けた者ならびに教会において認可された修道身分に属する者以外の、すべてのキリスト信者のことである。すなわち、洗礼によってキリストのからだに合体され、神の民に組み込まれ、自分たちのあり方に従って、キリストの祭司職、預言職、王職に参与する者となり、教会と世界の中で、自分たちの分に応じて、キリストを信じる民全体の使命を果たすキリスト信者のことである。
信徒に固有の特質は、世俗に深くかかわっているということでる。聖なる叙階の成員は、時には世俗のことに携わり、さらには、世俗的職業に従事することもできるが、その特殊な召命としては、主として、また本来、聖なる奉仕に秩序づけられている。また修道者は、その身分をもって、真福八端の精神なしには世の姿を変えることも、世を神に奉献することもできないことを示す明白かつ優れたあかしとなっている。これに対して、信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。信徒は世俗の中に生きている。すなわち、世の個々のそしてあらゆる務めと仕事に携わり、家庭と社会の通常の生活条件の中で生活するのであって、彼らの生活はいわばそれらによって織りなされている。彼らはそこに神から招かれているのである。それは、自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである。こうして信仰・希望・愛の輝きをもって、とくに自分の生活のあかしを通して、キリストを他の人々に現すのである。したがって、彼らが密接にかかわっているすべての現世的なことがらが、いつもキリストに従って行われ、発展し、創造主とあがない主の賛美になるよう、それらすべてに光を当て方向づけることは、とくに彼らに託された使命である」

信徒について、私が知り得るかぎり、これほど積極的に定義し、明確に提示したのは、2000年来の教会史のなかでも第2バチカン公会議が初めてだったのではないでしょうか。それは、「ここでいわれている信徒とは、聖なる叙階を受けた者ならびに教会において認可された修道身分に属する者以外の、すべてのキリスト信者のことである」、「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである」の言葉に見事に表されています。
それまでにも、教皇ピオ12世(注一)が1946年2月20日に『新枢機卿へのあいさつ』のなかで「信徒は、教会生活の最前線に立っています。信徒によってこそ、教会は人間社会に生命を与える源となります。ですから信徒は、自分たちが単に教会の一員であるということだけではなく、教会そのものであるということを、今まで以上にはっきりと自覚しなければなりません。つまり、すべての者の頭である教皇と、交わりのうちに教皇と一致した司教たちに導かれた地上の信者の共同体、これが教会なのです」と指摘するなど、個々には見受けられるのですが、おおむね消極的な解釈だったと思います。
「聖なる叙階を受けた者ならびに教会において認可された修道身分に属する者以外の、すべてのキリスト信者」である私たち信徒に課せられた、その召命と使命について述べる前に、教会の職制(ministerium ecclesiasticum)について、教会史に添って若干言及しておこうと思います。

聖書には、初期キリスト教会において少しずつではあるが職制が生まれ、展開してゆく過程が窺えます。
「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、それから病気を治す特別の恵みをもつ者、人を世話する者、司どる者、種々の異言を語る者などです。」(1コリ12:28)
「わたしたちは与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っていますので、それが預言の賜物であれば信仰に応じて預言をし、奉仕の賜物であれば奉仕をし、また教える人は教え、励ます人は励まし、施しをする人は惜しみなく施し、司どる人は心を尽くして司どり、慈善を行う人は快く行うべきです」(ロマ12:6-8)
このように、パウロの時代では、まだ、使徒、預言者、教師などそれぞれが持つ賜物に応じた奉仕職が存在していることが記されているだけです。それが次第次第に、「監督の職に就きたいと思う者は、善い仕事を望む者である」という、この言葉は真実です。ですから教会の監督は、咎められるところがなく、ただ一人の妻の夫であり、節制し、思慮深く、礼儀正しい人で、人を手厚くもてなし、教える能力がなければなりません。また、酒飲みでなく、乱暴でなく、寛容で、人と争わず、金銭に淡泊であり、自分の家をよく治め、すべてに謹厳で、子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。自分の家を治める術を知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。また、信者になって間もない者であってはなりません。そうでなければ高慢になって悪魔に訴えられるかも知れないからです。さらにまた、教会外の人々にも評判の善い人でなければなりません。そうでなければ、非難されて、悪魔の罠に陥るかもしれないからです。奉仕者もまた、謹厳で、二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益を貪らず、清い良心とともに信仰の神秘を固く守っている者でなければなりません。彼らもまた、まず審査を受けなければなりません。そして、咎められる点がなければ、奉仕者の務めに就けられます。女性の奉仕者もまた、謹厳で、人を謗らず、節制し、すべてにおいて忠実な人でなければなりません。奉仕者の務めを立派に果たしたものは、善い地位を得、さらにキリスト・イエスに対する信仰について揺るぎなく、大胆に語るようになるでしょう」(1テモ3:1-13)
「わたしが、あなたをクレタに残してきたのは、わたしの指示したとおりに、やりかけたことを片づけ、町ごとに長老を任命してもらうためでした。長老たるものは、咎められる点がなく、ただ一人の妻の夫であり、その子供は不品行を責められたり、反抗的であったりしない信者でなければなりません。監督は、神の家の管理者として、咎められる点がなく、高慢でなく、短気でなく、酒飲みでなく、乱暴でなく、恥ずべき利益を貪らず、かえって、人を手厚くもてなし、善を愛し、思慮深く、正しく、信心深く、自分を制し、また、教えにかなった信頼すべき言葉を固く守る者でなければなりません。これは健全な教えをもって人々を励まし、また、反対する者を説得することができる人となるためです」(テト1:5-9)
このなかで「監督」・「長老」・「奉仕者」と言われている人々が、時を経て、「司教」・「司祭」・「助祭」という職制となり、それに従う人たちが「信徒」として位置づけられるようになるのです。
(続く)

(注一)ピオ12世 1876年、ローマに生まれる。名はEugenio Pacelli. 1899年に司祭に叙階。教皇庁国務省の勤務を経て、駐ドイツ大使、国務長官などを歴任。1929年に枢機卿に任命される。1939年に教皇に選出される。主な回勅に『Mystici Corporis ミスティチ・コルポリス(キリストの神秘体、の意)』、『Humani Generis フマニ・ジェネリス(人類について、の意』がある。「聖母の被昇天」の教義を制定した。

<引用・参考文献>
「岩波キリスト教辞典」大貫隆・名取四郎・宮本久雄・百瀬文晃編集 岩波書店 2002年
「カトリック教会のカテキズム」日本カトリック司教協議会教理委員会訳・監修 カトリック中央協議会 2002年
「聖書」フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 2013年
「第二バチカン公会議公文書・改訂公式訳」第2バチカン公会議文書公式訳改訂特別委員会監訳 カトリック中央協議会 2013年

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